- 石清水八幡宮について
- 石清水八幡宮にまつわる話
はちまんさんとエジソン
今から100年以上も昔、明治12(1879)年の秋、偉大な発明王エジソンは最初の白熱電球を発明しましたが、もっと誰もが気軽に使うことができる電球でなければと満足せず、さらに研究を続けました。試行錯誤の研究を進める中、ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、その骨を使って電球を試作してみました。するとその結果、電球の寿命は飛躍的に延びました。そしてその扇子の骨こそが竹であったのです。竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。
さっそくエジソンは「究極の竹」を求め世界中に研究員を派遣し、その中の一人であった探検家ウィリアム・H・ムーアは中国を経て日本へとやってきます。ムーアは様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。エジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。その竹こそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。
その後日本の竹は使われなくなってしまいますが、それまでの十数年間、日本の竹がはるかアメリカの家庭や職場、街頭を明るく照らしていたのです。
このエジソンと日本、そして男山との深い縁を踏まえ、昭和9(1934)年に石清水八幡宮境内の隣に「エジソン記念碑」が建立されました。そして昭和33(1958)年には、エジソン彰徳会により、当宮境内に記念碑が移転され、さらに記念碑建立50年に当たる昭和59(1984)年10月18日には、デザインを一新し建て替えられて現在に至ります。
エジソンの令嬢スローン夫人は「これほど立派な記念碑はアメリカでも見たことがない」と感激されました。
当宮では、世界の発明王の遺徳を偲び、毎年エジソンの誕生日である2月11日にエジソン生誕祭、命日である10月18日(都合上前後日に変動あり)にエジソン碑前祭を斎行し、記念碑前に日米両国の国歌を奉奏し、国旗を掲揚しています。
特にエジソン碑前祭では、エジソン彰徳会や電力会社関係者参列のもと、カーネーションの花輪を碑前にお供えしています。
はちまんさんと徒然草
- 徒然草第52段
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仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
口語訳
仁和寺にいた、ある法師が、年をとるまで石清水八幡宮をお参りしたことがないことを情けなく思い、ある時思い立ち、一人、徒歩でお参りにいった。(山麓の)極楽寺と高良神社をお参りし、(八幡宮へのお参りは)これだけだと思い込み帰路の途についた。
帰った後、傍輩に向って、「ずっと(心に)思っていたこと(八幡宮へのお参り)を果たせた。聞いていた以上に尊さ(八幡大神の御神威)を感じた。ところで、他の参詣者が皆、山へ登っていったが、何か山上にあるのだろうか。行ってみたいとは思ったが、お参りすることが本義であるからと思い、山上までは見に行かなかった。」と言った。小さなことにも、案内者(指導者)は欲しいものである。
- 古に果たせぬ法師の想いを今
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これは吉田兼好の随筆『徒然草』に、文中最後でも述べられている通り、「些細なことでも、そのことについて導いてくれる人が必要である」という教訓を説く例として登場する場面です。そもそも、この、ある法師の勘違いは石清水八幡宮の御本殿が男山山上にあり、さらには山麓にも別のお社があることにより起こりますが、文中の極楽寺は元慶7(883)年に建立され立派な伽藍でしたが、慶応4(1868)年1月に「鳥羽伏見の戦い」の兵火で焼失し現存していません。また高良神社は当宮の摂社ですが、八幡の氏神でもあり、毎年7月17・18日には「太鼓まつり」が八幡の夏の風物詩として賑やかに行われています。
『徒然草第52段』の通り今も高良神社の脇から表参道あるいは裏参道にて山上の石清水八幡宮御本殿まで約20分程度で上がれますので、念願果たせなかった仁和寺のある法師の分までご登拝いただけますよう心よりお待ちいたしております。
はちまんさんとお茶
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- 献茶講の設立
- 昭和22年7月、それまで毎年献茶をご奉納頂いていた各献茶家により益々の茶業振興を志し「石清水八幡宮献茶講」が設立されました。設立当時は全国屈指の茶所である宇治・山城地区の各献茶家から約160点の献茶奉納があり、昭和50年代の全盛期には約1,000点、現在は約350点の奉納があります。
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- 献茶審査品評会
- 当宮献茶講では、毎年9月下旬にその献茶の審査品評会を行っています。外観と内質(水色・香気・味)により厳正に審査され入賞した献茶は、10月27日に斎行される秋季献茶祭にて全献茶を御神前にお供えした後、褒賞式にて表彰されます。
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- 茶園の復活
- 献茶講設立から4年後の昭和26年、更なる茶業の発展を願い当宮境内に「鳩嶺(きゅうれい)茶園」が開園され、翌年には初めての茶摘みが行われました。しかし、昭和58年春、宿泊施設・研修センターの建設に伴い閉園となっておりました。それから21年後、献茶講設立60周年3年後に控えた平成16年4月、各方面からの熱意により境内の整備を行い、名称を「雄徳山(おとこやま)茶園」と改め茶園の復活を果たしました。
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- 雄徳山茶園茶摘み・手もみ製茶
- 復活以来、雄徳山茶園は毎年見事な茶葉三種(ごこう・うじひかり・やぶきた)が収穫できるようになり、とくに平成21年からは当宮「平成の正遷座」を記念し、以降毎年、雄徳山茶園の茶摘み、手もみ製茶を一日がかりで行い、その茶葉を畏くも天皇陛下に献上しています。
はちまんさんと源氏一門
源氏一門の八幡宮への崇敬はとりわけ篤く、氏神として尊崇することにより、もともとあった武神、弓矢の神としての信仰は益々強いものとなり、宇佐-石清水-鶴岡と繋がる八幡宮の勧請は全国各地へと広がります。
当宮と源氏一門にまつわる話として、源義家(1038-1106)が当宮で元服し「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名ですが(次男・義綱は賀茂明神で元服し「賀茂次郎義綱」、三男・義光は新羅明神で元服し「新羅三郎義光」と名乗る)、ほかにも、「寛治5(1091)年8月14日、義家の寝室に一羽の山鳩が飛来し、椋の実3粒を口から落として死んだ。義家は、『山鳩は八幡神の御使い、定めて凶事の知らせに違いあるまい』として、翌日石清水八幡宮に銀剣一腰、駿馬一疋を奉った」という話が伝わっています。
義家の祖父である河内守・源頼信(968-1048)は、応神天皇が頼信から数えて22代前の先祖にあたるとして、永承元(1046)年、同天皇の山陵(大阪府羽曳野市誉田)に任国の安穏と家門の繁栄を祈る願文を捧げており、その古写本が当宮に伝わっていますが、そのなかには、一般に知られている「清和天皇-貞純親王-経基-満仲-頼信」という系図とは異なる「清和天皇-陽成天皇-元平親王-経基-満仲-頼信」という系譜が記されています。
永承6(1051)年に始まった奥州・安倍氏の反乱(前九年の役)を、ようやく康平5(1062)年にいたり長男・義家の武勇と出羽の豪族・清原氏の支援を得て鎮圧した源頼義は、翌年鎌倉由比ヶ浜に当宮のご分霊を祀り(のちに、建久2(1191)年、源頼朝はこの八幡宮を遷し鶴岡八幡宮を創建する)、さらにその翌年には凱旋将軍として河内に帰還し、当宮のご分霊を祀り壺井八幡宮を建立しました。この地は、頼信-頼義-義家の河内源氏三代の居館のあったところであり、近くには三代の墓と三代を祀る社が建てられています。
はちまんさんと松花堂昭乗
高僧、書家、画家、茶人…松花堂昭乗は石清水八幡宮の歴史、興隆を語るうえでなくてはならない人であることはいうまでもありません。
昭乗は、俗姓・中沼、幼名を辰之助といい、天正12(1584)年に奈良または堺に生まれ、少年のころ近衛信尹に仕え、17歳のときに石清水八幡宮社士松田秀知の猶子として男山に登り出家、初め鐘楼坊、のち瀧本坊に住まいして、師・実乗のもとで修業に励み、やがて両部灌頂を受け阿闍梨に昇り、44歳で瀧本坊住職となりましたが、54歳のときに住職を甥の乗淳に譲り、自らは泉坊境内に建てた放丈「松花堂」に隠棲、寛永16(1639)年、享年56で入寂しました。お墓は、八幡平谷の泰勝寺にあります。
「式部卿」「惺々翁」「空識」「南山隠士」など多くの号をもつ昭乗は、真言密教を究めた高僧であると同時に絵画、書道、作庭、茶道、和歌など多方面に才能を発揮した当代一流の文化人でありました。とくに書家としては、近衛信尹・本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」に数えられ、「松花堂流」の祖として名高く、親交のあった人物としては、近衛信尋、小堀遠州、林羅山、木下長嘯子、石川丈山、佐川田昌俊、江月、沢庵らの名が挙げられます。
平成23年11月の瀧本坊遺跡発掘調査で発見された茶室は、崖にせり出して造られた懸造り(かけづくり)の「空中茶室」であったことが判明し、制作に携わったといわれる小堀遠州と昭乗の粋なアイデアがつまった茶室であったといえます。
また、四角いお弁当箱の中が四つに仕切られ、美しく盛り付けられた懐石の料理「松花堂弁当」は松花堂昭乗が愛用した道具箱(絵具箱)をヒントに吉兆の店主が考案したのが始まりといわれており、この名前が付けられました。
はちまんさんアラカルト
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紙鯉伝承その①
「黄河上流にある竜門という急流を溯ることのできた鯉は竜になれる」
男子の健康と立身出世を願う5月5日の鯉幟は、この中国の「登竜門」の故事に因むものと一般には説明されていますが、厄除開運の神様として古来名高い石清水八幡宮の門前では、昔から玩具の弓矢や武者人形等と共に和紙で作られた鯉幟=紙鯉が売られていました。
この紙鯉の起源は、宝暦年間(今から約230年前)にまで溯ります。ある日、八幡に住む通称桶屋と呼ばれた翁が、男山の麓を流れる放生川にたくさんの鯉が泳いでいるのを見て着想を得、白と赤の紙で鯉の形を作り、墨で鱗を描いて竹棒に付け、「鯉は竜門に上る勢いあり。八幡大神これを愛して放生川に飼育せらるる…この形容を移し作る紙鯉を寵愛する人は必ず災厄を除き幸福を得る事疑いなし」と縁起を記し厄神詣での人々に販売したところ、これが幼児の土産に良いと評判を取り、やがて全国に広まったということです。
一説には、この八幡の紙鯉が5月5日の鯉幟の元祖と云われ、一方、今も石清水八幡宮で授与されている「紙鯉」(布団、枕の下に敷くと元気が回復し、特に床擦れに効くという)は、これが信仰上特殊な進化(八幡の民話と混同されていった)を遂げたものと考えられています。 -
紙鯉伝承その②
男山の麓に放生川という川が流れている。
その川のほとりに仲のよい母と子の2人が住んでいた。その子は、とても親想いの優しい子であった。ある日、母が重い病にかかり、寝込んでしまった。子は一生懸命に看病したが、一向に良くならない。そんなとき「鯉の生き血を飲ませると、重い病でも良くなる」という噂を聞いた。
しかし、放生川は神事でも使われる神聖な川として生き物の殺生や捕らえることが禁じられております。それでも母を見殺しにはできないと、子は放生川に入り、大きな緋鯉を捕らえ、その生き血を母に飲ませたのだった。
すると聞いていた話の通り、母は元気になった。殺生禁止の法を破った子は、その罪を償おうと、役人に名乗り出たが、その健気さに役人は心を打たれ、罰することはなかったという。その後、病を患ったときに、生きた鯉の代わりに紙で作った真鯉と緋鯉を枕の下に敷くと、病が治るという言い伝えが残った。
そして、いつしか、「床ずれが治る」といわれるようになり、「紙鯉」は石清水八幡宮参拝のお土産になったという。 -
八幡の昔ばなし「岩田帯」
昔な、岩田は綿の産地じゃった。まっ白い綿の花がそこら一面に咲いて、なんともいえん高貴さが漂い、それはそれは美しい風景じゃった。ふわっとして花びらが風に揺れると、まるで純白の衣をまとった乙女が風に舞っているようで思わず足をとめて見とれたものじゃ。皆一生懸命働いて遊んどる暇などなかったから、夕暮れになると、もうくたくたじゃった。柔らかな温かい綿畑に埋もれて一休みしていると疲れがいっぺんに取れて何かいいことがあるみたいで、ぽかーんと空を見上げては夢を追いかけたもんじゃ。秋になると、いよいよ綿の刈り取りが始まってのー、どこの家も活気に満ちて猫の手も借りたいほどの忙しさじゃった。
ちょうどあれは抜けるように済みきった秋晴れの昼下がりじゃったかのう。何処のお方かは知らぬが、その身なりといい、お供の方々の様子といい、ずいぶん高貴な女の方と察せられたが、綿みたいにまっ白で、とてもきれいなお方じゃった。都から下られる途中じゃったのか、沢山の供を従えてこの岩田を通りなされた。その時、身ごもっておられたんじゃなあ。急に産気づかれて、一行のあわてふためきようというたら大変なものじゃった。右往左往して、気も動転してか何やらわめき騒いでおる。気をきかした村の者たちが近くの小屋をあけて、上等の綿を敷き詰め、ともかくそこへ寝かせたんじゃ。なにせこの頃のお産は悪くすると命を落とす人も多かったんで、供の者も村の人もはらはらしながら小屋の外で見守っておった。その時間の何と長う感じたことか。やがてあたりの静けさを破って、元気な赤子の産声がかん高く聞こえてきた。皆はほっとして小屋の中へ入ってみると、皆の心配をよそに女の方は元気ににこにこして大そう嬉しそうじゃった。珍しいほどの安産だったんじゃ。一行はしばらく滞在しておったが、女の方が歩けるようになると、村の人たちに厚く礼をいって里へと旅立って行かれた。
こんなことがあってから、岩田では、その目出たい縁起をかついで、取れた綿をつむいで布を織り、その布に年齢と名前を書いて、厄除に、お宮さんの鈴に結わえてたらすようになった。また身ごもった人が五ヶ月になると、その布をもらい受けて、安産にあやかれるようしっかりとお腹に巻いたということじゃ。毎年正月になると、鈴のたれ布を新しい布に掛けかえるのじゃが、村中の人が厄除に、新しい布に年齢と名前を書いて、お宮さんに供えるということじゃ。これが今日でいう、岩田帯の起こりじゃそうな。 -
八幡の昔ばなし
「女郎花(おみなえし)」むかし、むかし、山城という国に石清水八幡宮があり、その男山のふもとに小野頼風という男が住んでおった。
頼風は京で宮仕えをしておったが、何度となく都へ上っているうちに、ある美しい女と親しくなり、「そなたが恋しゅうてならぬ。」と、頼風が思いつめるほどに、深い深い恋仲になってしもうた。
ところが日がたつにつれて、頼風がとんとたずねて来なくなってしもうたので、女は、「どうしたのでしょう。もしや病いにでもかかられたのでは。」と、心配ばかりしていたが、とうとう思いが募って、頼風の居る男山を訪ねてみようと思い立った。
ところが、ところが、男山に来てみると、頼風の女房と名乗る女が居て、「今、頼風は留守でございます。」と、冷たく京の女を追い返してしもうた。あまりのことに、気も狂わんばかりに驚いた女は、「ああ、これは何ということでしょう。あれほど、いとおしがられ、固い約束をしておきながら、もう私のことなどお忘れになってしまわれたのか。そんなお方だったのか。」と、頼風の心がわりを恨み、あまりの悲しさに打ちひしがれて、もう何もかも終わりだと嘆き、とうとう泪川に身を投げて、はかない最期をとげてしもうた。
それを知った頼風が、「ああ私は何としたことか。取り返しのつかないことをしてしもうた。許してくれ、許してくれ。」と、泣き泣き、その女の亡きがらを、手厚く葬ったのじゃ。女は身を投げた時、着ていた美しい山吹きの重ねの衣を脱ぎ捨てたのじゃが、その衣が朽ちると、やがてその場所に、一輪の女郎花が咲き出てきた。頼風はその女郎花をあわれに思うて、いとおしく、懐かしさのあまりに、思わず傍へかけ寄った。すると、花は恨み顔になびいて退いてしまう。「はて、おかしな事があるものじゃ。」と思うて、頼風が後ろへ下がると、花はまた元の場所に戻って咲いておる。あまりの様子に、心を痛めた頼風は、「これほどまでに私を怨んで死んでしもうたのか。みんな私が悪いのだ。すまぬことをした。」と、悔やんで、とうとう頼風も、同じ川に身を投げて死んでしもうたのじゃ。
すると、どうしたことか、その川べりに一本のあしが生えてきて、不思議なことに、そのあしは、大きくなるにつれて、葉がどれも女郎花塚の方ばかり向いており、いかにも「恋しい、恋しい。」とでも云うように、たなびいて茂っておる。それからというもの、このあしは、"片葉のよし(片葉思いのよし)"と呼ばれて、ただ一ヶ所だけ、生えておるそうな。
後に、この話をあわれに思った世の人が、女郎花塚を建てたのじゃが、これを女塚と云い、また、頼風塚は男塚とも云われて、今でも、松花堂庭園内に女郎花塚、八幡今田に頼風塚が残っておるそうな。