- 石清水八幡宮について
- 八幡宮の文化財
稽古照今(けいこしょうこん)
-古を稽(かんが)え、今に照らす-
当宮は明治初年のいわゆる「神仏分離」によって多くの貴重な文化財が失われましたが、現在も多数の文化財を所有しています。
その歴史を紐解くことで、先人の思いと知恵を受け継いで今に活かし、そして次の世代に繋げるため、研究所を設置し、
文化財の研究や修復作業などに取り組んでいます。
何卒、文化財保護への趣旨ご賢察いただき、文化財保護基金としてのご奉賛を賜りますようお願いいたします。
文化財のご紹介
藤原宣孝「大宰府符」重要文化財
重要文化財「石清水八幡宮文書」として一括される文書群は、平安時代中期から明治の初頭まで、およそ千年間にわたり作成され伝えられてきた文書です。「石清水八幡宮文書」のなかで、最も古い時代に記された原本史料とされるのが、田中家文書・正暦3年(992)の「大宰府符」。この文書は、当時大宰府の役人であった藤原宣孝(奉行少貮兼大介藤原朝臣)、すなわち後に紫式部の夫となる人物の自筆署名が遺された唯一の史料としても知られています。
木造童形神坐像 8躯重要文化財4躯、京都府文化財4躯
平成3年3月、境内築地内の校倉の中から、古神像8躯が発見されました。どの像にも、手足の一部にかなり早い段階に生じたと見られる欠失が認められましたが、これは神像としての役目を終え、すでに魂を抜かれた状態であることを示すため、人為的に施されたものと推測されています。発見された古神像8躯のうち、平安時代末から鎌倉中期にかけて製作されたと見られる男神像4躯が、「木造童形神坐像」として平成18年6月に国の重要文化財に指定されました。
徳川家康社務廻職判物 一通重要文化財
慶長5年(1600)5月25日付け田中宛ての家康判物(いえやすはんもつ)【竪紙(たてがみ)、大高檀紙(おおたかだんし)、縦46.0㎝、横65.8㎝】は、田中秀清・善法寺舜清・新善法寺重清・壇栄清の祠官家(しかんけ)四者にたいし、同日付けで各自に出された当宮社務廻職に関する一通である。本文書の内容は、冒頭に「石清水八幡宮社務職之事」とあるように、別当(べっとう)や検校(けんぎょう)といった当宮の統轄職となる祠官家が社務職を務めてきた。近年、その次第が紛れているようだから、究明により廻職に定めた。今後は、田中・新善法寺・善法寺・壇の輪番を遵守し、あわせて社務領および兼官領を所務することと、家康が署判(しょはん)をもって裁定している。前年、田中秀清は豊臣家奉行の前田玄以と交渉し、「上様(うえさま)」(家康)に社務職補任(しゃむしょくぶにん)を申請しており、慶長5年5月15日付き家康判物(折紙)によって秀清の社務職就任が認められ、なお秀清は同25日付け朱印状で百石の知行高(ちぎょうだか)が安堵された。家康は八幡境内の寺社をはじめ神人(じにん)・住人にいたるまで、知行高をひとしく保証した。まさに八幡は全国でもっとも多くの家康文書が同時に発給された家康ゆかりの場所なのである。
豊臣秀吉奉納釣灯籠
石清水八幡宮には、武田信玄や明智光秀など、著名な戦国武将からの書状が多数伝わっており、なかでも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とつづく「天下人」の文書には、彼らの天下万民へ向けた言外のメッセージが込められているように見受けられます。豊臣秀吉が石清水八幡宮祠官家の田中門跡(田中秀清)に宛てた天正17年(1589)11月20日付の領地朱印状の秀吉の朱印は、印文が不明で、ミミズが這ったようにも見えることから、通称「蚯蚓(みみず)の糸印(いといん)」と呼ばれています。当時の田中家は、豊臣氏と非常に親密な関係を築いており、天正15年(1587)に豊臣秀吉から奉納された釣灯籠の火袋柱には「豊臣太政大臣、天正十五年五丁亥年、八月良辰、宿坊、瀧本坊」の文字が彫られています。
石清水八幡宮御縁起重要文化財
上巻・下巻の2巻からなり、下巻奥書に室町幕府第6代将軍足利義教公奉納の絵巻を橘継雄という人物が享保13(1728)年に謹写したものとあります。義教公が永享5(1433)年に奉納した旧国宝の原本絵巻は、昭和22年2月、社務所の火災により惜しくも焼失してしまいましたが、その写本とされる本絵巻は、焼失前に撮影された原本写真と比較すると、少なくとも絵画部分については正確に模写されたものではなかったように見受けられます。全国の八幡宮には類似の縁起絵巻が多数伝えられており、当宮にも正応2(1289)年作との奥書を有する八幡宮縁起絵巻1巻が別に伝わっています。
松鳩図絵馬(丸山応挙筆)八幡市指定文化財
薩摩藩25代藩主島津重豪(しまづしげひで)により奉納された絵馬。高さ104.5㎝幅197㎝あり、画は丸山派の祖丸山応挙(まるやまおうきょ)が描いている。絵馬の右端の銘記から、「天明7年(1787)正月」の奉納であることがわかる。重豪が子の斉宣(なりのぶ)に家督を譲った年である。金砂子やあざやかな色彩が残り、充実した画力がうかがえる、応挙の晩年54歳の作品である。
刀銘「表造 大慶直胤 裏 天保六年仲春」
大慶直胤は江戸時代の新々刀期を代表する最上作に評価される刀工である。安政7年(1778)に羽前山形に生まれ、荘司蓑兵衛と称し水心子正秀(すいしんしまさひで)の門に入り、山形の館林城主秋元家に正秀と共に仕えたと言われている。また一時松代藩(長野県)の専属刀工も務め、松代藩の武士達の多くは直胤の刀を差していたとも言われる。当宮所蔵の刀には表に「八幡大神」、裏に「牛頭天王」の文字が彫られ、奉納者の信仰の篤さが刀剣に込められた名刀である。
当宮の指定文化財
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国宝
建造物
- 石清水八幡宮本社(10棟)
- - 本殿(内殿及び外殿)(H28.2.9)
- - 摂社武内社本殿(H28.2.9)
- - 瑞籬(H28.2.9)
- - 幣殿及び舞殿(H28.2.9)
- - 楼門(H28.2.9)
- - 東門(H28.2.9)
- - 西門(H28.2.9)
- - 廻廊3棟(H28.2.9)
その他
- 附(つけたり)棟札3枚(H28.2.9)
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国指定重要文化財
古文書
- 古文書
- 巻物 796巻(S35.11・H11.4・H26.8)
- 冊子本 368冊(S35.11・H11.4・H26.8)
- 書状 1025通(S35.11・H11.4・H26.8)
- 地図等 10鋪(S35.11・H11.4・H26.8)
- 折本 21帖(H11.4・H26.8)
- 掛軸 5幅(H11.4・H26.8)
- 落款等 11顆(H11.4・H26.8)
- 『類聚国史』(巻第一、巻第五)
※嘉禄三年五月十九日書冩奥書(S38.7)
建造物
- 若宮社(H20.12)
- 若宮殿社(H20.12)
- 水若宮社(H20.12)
- 住吉社(H20.12)
- 狩尾社(H20.12)
- 東総門(H20.12)
- 西総門(H20.12)
- 西総門(H20.12)
- 石造り五輪塔(S32.2)
- 鎌倉期石灯籠(S37.2)
※永仁三年乙未三月日刻銘
国指定史跡
- 松花堂及びその跡(S32.7)
- 石清水八幡宮境内(H24.1)
神像
- 木造童形神坐像(4躯)(H18.6)
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京都府指定文化財
建造物
- 石清水社(本殿・神水舎・鳥居)(H21.3)
- 校倉(H21.3)
神像
- 木像神像(4躯)(H10.3)
考古資料
- 石清水八幡宮境内出土品(一括)(H30.3)
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京都府指定天然記念物
- 神苑南側の楠および神楽殿北側の楠(S61.4)
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八幡市指定美術工芸品
- 松鳩図絵馬(S61.5)
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国指定重要文化財
古文書
- 古文書
- 巻物 796巻(S35.11・H11.4・H26.8)
- 冊子本 368冊(S35.11・H11.4・H26.8)
- 書状 1025通(S35.11・H11.4・H26.8)
- 地図等 10鋪(S35.11・H11.4・H26.8)
- 折本 21帖(H11.4・H26.8)
- 掛軸 5幅(H11.4・H26.8)
- 落款等 11顆(H11.4・H26.8)
- 『類聚国史』(巻第一、巻第五)
※嘉禄三年五月十九日書冩奥書(S38.7)
建造物
- 若宮社(H20.12)
- 若宮殿社(H20.12)
- 水若宮社(H20.12)
- 住吉社(H20.12)
- 狩尾社(H20.12)
- 東総門(H20.12)
- 西総門(H20.12)
- 西総門(H20.12)
- 石造り五輪塔(S32.2)
- 鎌倉期石灯籠(S37.2)※永仁三年乙未三月日刻銘
国指定史跡
- 松花堂及びその跡(S32.7)
- 石清水八幡宮境内(H24.1)
神像
- 木造童形神坐像(4躯)(H18.6)